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太く翔け(07/07/20) 僕の高校生活は揺れ動いていました。オートバイやウイスキー、ハイライト。 ここでは申し上げられないような事も多少あったかもしれません。 しかし校内スリッパのまま、近くのお好み焼き屋にたむろしても、友人の下宿部屋でどんちゃん騒ぎをしても僕の心はおさまらなかった。僕は、要するに単純明快、健全な不良じゃなかったのです。 1970年。岡林信康、アルバム「見る前に跳べ」を発表。 前年にEP盤でリリースされた「愛する人へ」も収録されていた。 「知らない内に僕は君を思いのままにしようとしていた。僕が人からされたくない事を、僕はいつも君にしていたんだね。思い通りにならなかったからって、僕は君を捨ててきてしまったのさ」 女性への懺悔と心の痛みを綴ったこの歌を16歳の僕は、トンネルの中に家を建てて住んでいた友人と、そのトンネルでよく唄っていました。 雨が降っていなくても上からポタポタと水が滴り落ちてくる。トンネルの中はガラクタや壊れたテレビと冷蔵庫。 古い自転車が積んであり、その不安定なサドルに腰掛けて中古ギターをかき鳴らす。 訳もわからず熱唱したけど、言葉の意味を理解できたのはずっと後になってからのことです。 そう。その頃の僕は恋や愛だのなんて無縁の世界で悶え苦しんでいました。 エネルギーを持て余しモヤモヤとした気分の毎日。 悩み多き者よ・・・と斉藤哲夫が歌いました。 じゃあ悩みって何?それは日常の些細な事ではありません。 家庭って何?父親って何?社会って何?僕って何? 自分自身の存在価値は?何をして良いかワカラナイ。クラブも辞めた。彼女も居ない。 初めてバッグを握って飛び出したのは16の夏。信州を徘徊して2学期が始まる頃に舞い戻りました。 退屈な学校。いつものように授業を抜け出して映画館へ。お決まりのコース。初めての旅と言う映画でした。 演じたのは岡田裕介と森和代。現在は、東宝社長と森本レオの奥様になられたはず・・・。 庄司馨原作の「赤頭巾ちゃん気をつけて」や「白鳥の歌なんか聞こえない」三島由紀夫の「潮騒」(百恵ちゃんが 主演のじゃないですよ) 「旅の重さ」「八月の濡れた砂」なども見ましたね。 どの映画も揺れ動く若者の心境や葛藤を描いた作品です。17歳の僕は一体何を探していたのだろうか・・・。 「初めての旅」の挿入歌を、小椋桂と言う人が唄っていました。「僕は呼びかけはしない遠く過ぎゆくひとに・・・」 後に世に出て大ヒットした「さらば青春」をリアルタイムで聞いた瞬間です。映画は貧しくて不遇な環境から飛び出したい青年(高橋長英)と裕福で厳格な家庭に息苦しさを感じる青年(岡田裕介)が出会い、スポーツカーを盗んで旅に出る・・・というようなストーリーだったと思います。 僕の家は裕福ではありませんでしたが、父親に反抗していたこともあり岡田裕介演じる青年の気持ちは理解できました。 「裏の木戸を開けて、一人夜に出れば、灯りの消えた街角・・・」小椋桂が唄うそんな歌に僕は自分を置き換えて胸が熱くなり堪えきれずに涙しました。 僕にとって初めての旅は、書置きを残して宮町駅から鈍行に乗ったところから始まりました。 前の席では中学の先輩が女の子を連れて、旅行話しの真っ最中。それはそれは楽しそう。 トランプのババ抜きのババがあっちへ行った、こっちに来たというだけでケラケラ笑う。 そんなことどうでもいいじゃないか。もう少し静かにしろよ。僕は今、家族を捨てて家を出てきたんだぞ・・・。 あの時、心の中でそう叫んで窓の外の流れる景色をセンチメンタルな気分で見つめていた。 そんな状況を思い出したんです。小椋桂の歌を聴いて。そして不覚にも涙が零れ落ちた。 これが歌を聞いて流した涙の始まり。感情移入形。 話は変わり、1978年2月。ここは武道館。遠くでボブディランは熱唱していました。 夢にまで見た初来日。初コンサート。恥ずかしながら涙が出ました。 でもこれは感動形。そういう意味ではギルバートオサリバンでもありましたね。 アローアゲインで一躍スターダムに上り詰めた彼は、プロモーターとのトラブルでミュージックシーンから一時消え去りました。 死亡説、廃人説。アイルランドの小島から一歩も出なかったナイーブな青年ギルバートオサリバン。 プロの音楽ビジネスに嫌気が刺したのだろうか・・・。 1972年にヒットしたアローアゲインが1990年頃の日本のドラマ主題歌として若い女性を中心に再ヒット。 もちろん日本だけ。 ちょっと複雑な気持ちだけど来日が決定したのはその女の子たちのおかげですからしょうがないですね。 そんな彼の初来日コンサートを見に行きました。 もう、お年なはずなのにピアノに飛び乗り踊って見せたしぐさに思わず涙がポロリ。同じく感動形。 最近の話です。ひとりの男の歌を聴いて涙が止まりませんでした。ニールヤングに会えた感激でも加川良の 下宿屋を聴いた胸のうずきでもない。シトシトといつまでも滴り落ちる、僕にとっては経験のない異質な涙。 奴が中学1年になった誕生日に、僕はフォークギターを買ってやりました。マーチンによく似た音の出る国産品。 ギターケースまでおまけにつけてもらい、はにかみながらも大喜びしてたっけ・・・。 父さん、Eは簡単や。Amも指が自然に置ける。Fは、しっかり押さえても音が出やへん・・・。 アルペジオにスリーフィンガー。僕が教えることが出来たのはこの辺りまででした。 毎日毎晩、よく飽きもせずに弾いていられたものだ。 それより、エースがそんなに爪を伸ばしたらボールが投げられないじゃないか。 高校も同じ。W大でもT芸大でも大丈夫と太鼓判を押されたのに、周囲の期待に反して卒業したら音楽の街 下北沢へと飛んで行ってしまった。 芽は出ない。何をやってもうまく行かないか?あせるな。努力さえしていれば道は開ける。 僕は16歳の夏に家を出て電車に飛び乗った。17歳で北海道の牧場で働き、18で軽井沢。 それでも高校は卒業出来て、大学に進めたのは嘘のようだ。 努力はしたか?いや、ただもがいていただけ。僕は何をしたかったんだろう・・・。 賭け麻雀と馬場通いで二十歳を過ぎる頃のことまでは、あまり思い出したくはない。 家族はあまりにも遠い存在だった。 お前は、高校を出て5年間。ミュージシャンになる夢を捨てずに生きて来たのかな? それなら、そのありったけの思いを自分の歌で僕に伝えてみろ。 笑っちゃうな・・・。息子の歌で泣くなんて。僕は親馬鹿じゃない。それでも突然に涙が溢れたのです。 応援の涙。いや・・・違うな・・・。 立ちはだかる壁をまえにして、もがき苦しむ息子の姿に昔の僕を見たのかもしれない。 僕の人生は波乱万丈行き当たりバッタリ。壁にぶち当たりながらもどうにかこうにか、ここまでやって来れた。 そんな僕が言うのもおかしな話しだが、真摯に自分の道を追い求める者には応援をしてやりたい。 この秋に、地元ケーブルテレビの歌番組に出演する機会を得ました。 そしてそれは僕たちの約束の中で最後のチャンスなのです。ギターを奏でお前が唄う。 はたして、その歌は人の心を打つことが出来るのでしょうか。 お前の歌は、僕の感情を揺さぶり、涙は頬を濡らすのでしょうか? 僕は、どうしてもそれだけは確かめたい。