蘇る獅子(07.06.05)
貴方はじっと潜んでいるように見えた。俺様を永い眠りにつかせるなんてと怒りを堪えていたのかもしれない。
それとも穏やかに眠りながら誰かに揺り起こされるのを静かに待っていたのでしょうか?
僕達は、大正時代の由緒あるこの建造物に長い間恋焦がれていました。
ここは神都、伊勢。伊勢神宮外宮の前に鎮座する重厚な建物は、当時の逓信省が建築した山田郵便局電話分室。
煉瓦造りの壁には白いモルタルが塗こめられ、赤い屋根瓦とともに只者ではない雰囲気をかもし出していました。
千鳥破風(ちどりはふ)の屋根は美しく、何度も何度も眺めては、深いため息をついていたのです。
いつかこの場所でレストランを開きたい。
伊勢の人、伊勢を訪れる人たちと、この建物のなかで過ごす喜びを共有したい。
大胆にも僕とマダムはそんな途方もない夢を持ち続けていたのです。でも、もちろんそれは夢の又、夢。
それでも諦めきれずに意を決して口に出した時から物語が始まったのです。
逓信省、電報電話局、電電公社、NTTと名義が変わりながらも大切に保管されていた、このとてつもない城を、どうか僕たちに貸してくださいと願い出たのです。
当時の NTT伊勢志摩支店長は、熱心に僕の話を聞いてくれました。
伊勢市駅前の人通りは淋しい。外宮への参拝客数はかつての面影もない。
眠れる獅子を眼覚めさせ、この近辺の活性化の起爆剤にしようではありませんか。
僕の言葉に、懐の深い優しい眼をした支店長は、中をご覧にいれましょう。と、案内役をかって出てくれたのです。
来る人を拒むような白く大きな門を開け、初めてこの建物の中に入った時、さすがに興奮して膝が震えました。
広い・・・高い天井を見上げ抑え切れないほどの胸のどよめきを感じ、しばらく呆然と立ち尽くしてしまったことを白状します。
ガラーンとした室内はひんやりとして埃っぽく、人気(ひとけ)が無いと言うのはまさにこのことです。
人気(ひとけ)の無い夜道を歩いても、朝になったら、犬の散歩をする人や通学路でじゃれ合うランドセルの子供達を容易に想像出来ます。でもここは違った。まるで形跡が無い。朝まで待っても人っ子一人来る訳が無い。
長い長い年月で閉ざされてしまった埃まみれのこの空間。僕は、もう一度人の気で溢れさせたいと強く思ったのです。
部屋に佇み目を瞑りオーケストラの指揮者のように腕をさまよわせながらイメージを広げる。
するとどうだ。瞬きをするまでもなく、あっと言う間にイメージが膨らみ各部屋にすっぽり収まったのです。
こいつを動かすには余程の覚悟をしなければいけない。不安?いいえ。震えたのは勇気ある武者震いです。
こうして僕の心は走り出しました。もう誰にも止めることは出来ない。だって僕は、腹をくくってしまったのだから。
はやる心。膨らむ僕の構想。あれもしたいこれもしたい。でもそんな僕の勢いにストップをかけるような問題が
続出する。せっかくつかんだ物が掌から居なくなってしまう焦りと不安。
説得に走り回ったり頭を下げたりと、今思うとドタバタとしてかっこ悪いと言ったら無かった。
人脈はないし、ボンボンでも二代目でもない。いつもそうやって自分で動き回り、道を切り開いてきたんです。
でも、今回ばかりは僕の力ではどうしようもない・・・覚悟を決めました。負けたかも知れないと・・・。
窮地に陥った僕に手を差し伸べてくれたのは、やはり優しい眼をした支店長でした。貴方がやりなさい。
貴方がやろうとしているレストランが、この建物に一番ふさわしいと思うよ。
この一言を境に全てのギアががっちり絡み合い眠れる獅子が僕に向かって頭(こうべ)を下げたのです。
動く。動く。眠り続けた怪物がついに動き出しました。とうとう僕はやった。
僕はこみ上げる感動とともに、これからどんな苦労があろうとも今日の感激を忘れずに困難を乗り越えようと誓ったのです。
工事が始まりました。僕はどうしても最初にしなければいけないことがある。レストランの仕事が終わる真夜中に、誰も居ない現場へと毎晩通いました。
懐中電灯片手に真っ暗な部屋に入り、ポツンと置かれた椅子に一人座る。恐くはないの?・・・ちょっと恐い。
何故?
笑われるかも知れませんが、僕はある人にお目にかかりたかったのです。
ドイツ留学を経験したのち、この建物を手がけた29歳の若き建築家吉田鉄朗氏に。
彼にとっても恐らく思い入れのある作品だったのじゃないかと思ったのです。
あなたが意匠をこらせたこの建物は四半世紀を過ぎて私達のレストランに生まれ変わろうとしています。
内装に手を加え、設計者の貴方を決して落胆させない夢の舞台を作り上げますので見ていてください。
そんな挨拶を交わして僕は主(あるじ)の交代を申し出たかったのです。
しかし、超能力が無いくせに強引な対面を願っても無理な話。
無謀な挑戦は失敗に終わりましたが、この建物自体とは、仲良くなれたような気がしました。
50年以上遥か遠い昔へ旅してみましょうか。もちろん僕もまだ生まれてない頃の話
です。
国鉄伊勢市駅を降りて外宮に向かう道は、路面電車が走り土産物屋と風情のある旅館が立ち並んでいる。
参拝客で賑わう道を南に進み左に折れると路面電車の停留場。そのまん前にこいつは威風堂々と鎮座しています。
横にはテニスコート。当時駅前にテニスコートが敷かれていたことも雄大な話です。
そして、山田郵便局電話分室の石柱の間をケラケラと楽しそうに笑い転げる娘達の一団が入って行く。
時代の最先端の仕事をになう娘達だ。その顔は、ここで働く喜びと自信が満ち溢れている。
ひときわ目を引く女性がいる。明るい笑顔。いつも話の輪の中心にいるように覗(うかが)える。
人の話を聞く時には必ず瞳を輝かせる。・・・その目は・・・もしかすると・・・お母さん。
なるほど・・・、僕がここでレストランをすると言った時、なんてことを言い出すの。あそこは私達の青春時代の聖地なのよ。と、声を荒らげた理由(わけ)がわかった気がしました。
あなたは、当時の最新技術でハンドルをぐるぐる回して人の声と声を繋げていた。
離れ離れの家族が電話と言う手段で結束するお手伝いをしていたのかも知れない。
そんな話を聞きたくても母親はすでに記憶を失くしてしまった。
レストランになった今、当時の娘さんたちが食事に来てくれることがある。
奥の席に案内するとキャーキャー言って喜んでくれるんです。私たち、館長のお部屋で食事出来るなんて幸せよねって。
お袋も元気だったら、このおばあちゃん達に混ざって一緒に楽しむんだろうなと思うと胸が痛い。
トンツーツートンツーツー。
小さい頃に親父が手首を器用に使いながら僕に電信を打つ真似をしてくれたのを覚えています。
尋常高等小学校を出た親父は電話局の仕事を一途に励み、持ち前の努力で電話局長にまで登りつめた。
厳格な父でしたが電話の話をする時は、決まって顔が綻(ほころ)んだ。
たけし、テレビ電話は漫画の世界だけじゃなくなる。将来に絶対実現される物なんだ。
未来の話だと思って聞いていました。宇宙ステーションで生活したり、東京大阪間を一時間で移動出来る様な夢物語。
でも確かに現実はその通りになった。技術革新のスピードはとてつもなく速い。父親イコール仕事。
ザリガニを取りに行ったこともなければ、一緒に山鳩を追いかけたこともない。
家庭を顧みない仕事熱心な男たちが知恵を出し合って電話と、それを取り巻く環境を激変させた。
そして、こいつは眠り続ける獅子となってしまった。
仕事を愛し続けた電話馬鹿。そんな父親に僕は自分の夢を託した。
突拍子もないことを言うな。目を剥いた親父だったが、僕たちの気持は通じた。
やはり獅子を気にかけていたのかもしれない。
夢は口に出さなければ始まらない。
ワシの息子の馬鹿げた話を聞いてやって下さい。
NTTの偉いさんに頭を下げて橋渡しをしてくれた父親に感謝しています。