ボンヴィヴァン(伊勢外宮前 ボンヴィヴァン)

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プロフィール 河瀬毅 


■魂の料理
二人の長い戦いは、夏休み最後の夜、スタッフの父親からの一本の留守番電話により始まりました。
テープの声は、助手席に乗っていた息子が交通事故にあって病院に担ぎ込まれたと震えています。
すっ飛んで行ったのはもちろんですが、その後面会可能になり病室に入ることが出来ました。
はっと息を飲んだ経験は、あれ以来一度もありません。
顔中に血のかさぶたが出来ていることや、痛々しく包帯が巻かれていたことに悪寒が走ったのではありません。
私を震え上がらせた原因は、ベッドであぐらをかいていた彼の体が、右に左にゆらゆら揺られ、おまけに目が宙を見ていたからです。

コレハ、イッタイドウシタコトダ。呆然としているお母さんの顔。その横でニタニタしている彼。
これは、一体どうすればいいんだ・・・。

二回目のお見舞いには、男スタッフだけ。(女の子達には、どうしても見せられなかったんです)
若いスタッフは、先輩の変わり様にショックを受けて倒れてしまい長椅子に横たわり診察を受ける羽目になったんですから。
それから何度病院に通ったことでしょう。ある時お母さんが、この子はシェフさんだけは分ると言い出しました。
確かに私が顔を見せるとあぐらから正座に変わるのです。
ほんの少しの糸口が、見つかったような気がする・・・。
次の訪問ではスタッフの顔を見て、そいつのことをなんとニックネームで呼んだんです。・・・嬉しい。

私たちは、このようにしてこんがらがってクシャクシャになっている彼の糸の先を必死でつまんで、離さないように離さないように慎重に慎重に手繰っていきました。
次の次の見舞いでは、チョコンと病室の窓から顔を出す彼。私たちの到着を待ちわびていたのかな?
どうだい調子は?はい。段々良くなって来ていると先生が言っていました。
焦るなよ。徐々にいろんなことを思い出してくるから。はい・・・。
私の確信のない励まし。そして彼の自信のない「はい・・・。」
数ヵ月後、退院は許されました。でも・・・。

一体どうすればいいんだ。

毎週金曜日、私たちの賄いに参加を求めました。送り迎えも当然私。車中で、私は彼がバリバリ働いていた頃の逸話を話し、人ごとのようにそれを聞く彼。
店に着きスタッフに迎えられ一緒に食事を摂る。決してごちそうではないんです。
肉を焼いたり海老を茹でたりするごちそうだと返ってダメなんです。
かぼちゃのスープは簡単ですか?いいえ。玉ねぎをバターで白く炒めてかぼちゃの薄切りをからめてブイヨンで炊く。それだけ。でも今日入荷のかぼちゃの状態はどう?甘い?水分を多く含んでるの?
白く炒めた玉ねぎが15分で甘く煮えるのなら、かぼちゃもそれに見合った薄さが必要。
煮詰まる量を計算に入れてブイヨンを注ぐ。玉ねぎとかぼちゃが甘くほっこりと、煮詰まりながら煮える。
玉ねぎとかぼちゃは柔らかくなりながら山を上がって行く。液体量は下がっていく。この接点でピタリと火を止めミキサーに回し濃度がちょうど良くなければはいけない。
帳尻を合わせてはダメ。かぼちゃが煮えた。水分量が多い。こっちはまだまし。
何故なら液体だけを取り出し煮詰め、程よい量になったところでかぼちゃと再び合体すればなんとか誤魔化せる。
濃度がきついのは失敗。再度ブイヨンを入れると味が変わる。
水?水臭い。牛乳?乳臭い。
このように単純と思える料理ほど落とし穴が一杯です。
プリンの美味しさは、絶妙な火入れにあります。卵と牛乳、砂糖だけのシンプルなお菓子。誰もが簡単だとお思いでしょう。でも火入れは温度と時間だけでは、ありません。湯煎の温度、型の大きさ、厚さ、種類。
そしてオーブンの大きさでも違ってきます。
焼きあがったら、いかにもプロっぽくプルルと横に振ってはいけません。断層が出来てしまいます。
中指の腹で表面をそっと押さえて慎重に確かめましょう。これでまとわりつくようなプリンの完成です。
美味いか?はい。ねっとりとして美味しいです。じゃあ又今度な。
キッシュのパイのサクサク感。コンソメスープのクリアな味。
どうだ。全部お前に教えた料理。これも食えあれも食え。舌も喉も胃袋へも駆け巡れ。
神様、どうか彼の料理人の琴線を響かせ弾いて下さい!
なんの前ぶれもなく、彼の脳を覆いかぶさる厄介な物が霧散する日がやって来ました。
あの日の料理は、うたせ海老のビスク。酒好きの奴のためにいつもよりコニャックを少し効かせたっけ・・・。
一口飲んでは味わい、二口飲んでは冗談を言うようになってきました。
さて、いよいよ彼が活躍していた現場の二階に連れて行くチャンス到来。
戸惑う彼。まだ分らないのか・・・
サーヴィスステーションに立った。そうだ。お前はいつもその中で、片足を九の字に折り曲げて伝票を書いていたではないか。やがてゆっくりと店内を見渡した。誰も居ない席に視線を向けたその時、彼の目に光が宿りました。
シェフ、思い出しました。僕はここでこうして立っていました。野ばらの客の料理の進み具合。曲がり角の席のワインは減っていないかを見ていたんです。(野ばらも曲がり角も絵の題名です。かかっている場所が席の呼び名で彼はそれまでも思い出したのです)
そう言うと彼は、百合柄のじゅうたんに手を突き四つんばいになり、懐かしい懐かしいと擦り始めたのです。
そしてもう一度ここで仕事がしたいとはっきりと口にしました。

私はこの日を思い出すと胸が詰まります。人に伝えようとしても涙が出そうになり声が震えて話になりません。
15年も前のことなのに・・・。
この話は、彼も知らない部分が多くあります。当然ですよね、記憶が飛んでいたのですから。
シェフの部屋に話を載せるために今から、了解を取りに行ってきます。
どこへ行くのかって?
もちろん彼のレストランへですよ。

「ドーファン・イーヴル」



 

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