さようなら、伊勢人(いせびと)(07.06.22)
僕は褒められて成長したのじゃないかと思うときがあります。
無鉄砲に若い内から自分の店を持ち、曲がりなりにもここまでやってこられたのはこの人達のおかげじゃないのかと考えるのです。
はたして24年前に僕は美味しい料理を作っていたのでしょうか?
あの頃これが一番だと自信満々で出していた料理は、24年たった今、振り返ると恥ずかしくなることがあります。
僕は生まれた町でフランス家庭料理の店を開きました。
厨房には僕とアシスタントの若者が居て、ホールはマダム一人。フローリングの床に、漆喰の壁。
簡素なテーブルを置いた僅か16席の店が、僕の城です。オーダーを通すマダムの声は3日でガラガラになり、僕は朝から晩まで、ムールエスカルゴやブランケットドヴォーを作っていました。
産まれて間もない息子を、両親に預け母乳を届ける毎日。
9月に店をオープンして、息子を家に引き取ることが出来たのは、なんと年が開けた2月でした。
虹鱒のムニエルや、ラタトゥイユ、若鶏のバスケーズ。まだまだ料理の理屈も分からず、腕も舌も確立途中。
師匠の料理を見よう見真似で作っていた僕は、はたしてイケテル料理人だったのでしょうか?
そんな頃、ふと手にした地元の雑誌が、伊勢志摩でした。表紙の力漲る顔写真に惹かれたのかな?
清潔な白衣を凛々しく着こなし、意志の強そうな眉毛は目深に被ったコック帽からはみ出していました。
この人が世にとどろく志摩観光ホテルの高橋料理長か・・・。迫力のある顔です。
それからこっち、あれ程インパクトのある表紙に出会ったことはありません。
思わずページを見開きました。清潔な厨房に山ほどの伊勢志摩の幸。
この人は部下を従え誇らしげに仁王立ちをしていました。
「日は麗らかに志摩のくに・・・。」的矢カキ、伊勢海老、鮑を自由自在に操る志摩の闘う王様。
僕はそれまで東京にいて、天才料理人と呼ばれる春田光治の下で過ごしました。慶応大学を卒業してフランスへ渡り料理を学んだ、当時では数少ない料理人です。でも天才などと簡単に言うものではない。
僕はこの人が数々の料理本を読破して試行錯誤したのを知っています。
食べて食べて食べ込んで本物の味を体に沁み込ませたことも想像に難くない。
Tシャツにニット帽をかぶり楽しそうに料理してみせる春田光治にやんちゃ小僧のきらめきを見つけ、少女のように恋焦がれました。
そして人々はいたずら坊主の皿をひとたび口にするやいなや彼を料理の神様と呼んで褒め称えたのです。
かたや志摩の求道者。奇しくも年は同じ。フランス料理の指南書であるシェフシリーズもNo3とNo4と続いて出版されました。二人の生き方はまるで違うかも知れない。でも料理にかける情熱の凄まじさは変わらない。
中学を出た少年は鍋洗いから始まり、手も顔も真っ黒にして石炭ストーブの火加減を調節していたのでしょうか。
そして辛い修業時代を乗り越え若くして料理長になった。「麗人」「海への憧憬。」
志摩の武器を両手に抱え、コック帽から眉毛をつき出してお客様と対峙したのかな?
いや、違うかも知れない。「ひとひ、われ海を旅して・・・。」たおやかな海を眺めながら素材と対話する。
志摩にこだわり志摩の海を愛した料理人の生き様を、伊勢のひよっこ料理人が憬れたとしても不自然ではないと思います。
僕は、師匠から学んだ料理を作り続けるかたわらで伊勢志摩の産物を料理して、この地で生きていく指標が見つかった気がしました。
それを気づかせてくれたのが雑誌伊勢志摩です。心から感謝しています。
さて、前置きが長くなりました。その雑誌に開店間もない我がレストランが紹介されたのです。
取材なる物を初めて受けてから、発売日までが待ち遠しくて待ち遠しくて・・・。
ようやく発売日の前日に本を受け取りました。どこだどこだ!急いでペラペラとページをめくる。
後半のページまで進み、ようやく見つけました。僕はこんな瞬間でもすぐに見ようとしないで深呼吸してしまうのです。
子供の時からそうなんです。
待って待ってしたカタログが届いたときなんかもそう。あれほど待ってようやく手に入れたくせに、今度は簡単に読んでしまうのがもったいなくなる。それで訳もなく表紙をながめたり、見出しを見たり、別の記事に目を通しながらワクワク感を楽しんでしまうのです。
そんなことをしながら、そのページを開きました。写真の中に僕が居てマダムが笑っている。スタッフは・・・
こらっ!あれほどカメラマンが笑顔でと注文をつけてたじゃないか。
僕は紹介文を何て書いてもらったか忘れてしまいました。でも、あのしかめっ面だけは、はっきりと覚えていますよ。
料理写真は、そのまま伊勢路の味くりげという食のガイドブックにも転載され書店に並びました。
こそばゆくなるような褒め言葉。でも嬉しい。恥じないようにもっと進化したいと願いました。
店に転機が訪れると、いつもお世話になりましたね。
満を帰して2階にレストランを移したとき「まるでパリのアパルトマンをほうふつさせるような色合いだ。」
・・・と始まる粋な文章で紹介してくれたのは、現在、雑誌NAGIの代表です。
あの時も褒めてくれてありがとうございます。僕は恥じないように努力しようと誓ったんです。
縁があって現在の場所に引っ越した当初、新生ボンヴィヴァンの旗揚げに雑誌伊勢志摩の一ページを使い、シリーズで年6回の広告を2年続けて打ちましたね。
もともと僕は宣伝広告を出す事があまり好きじゃなかったんです。お金を出して注目を集めるような行為。
それではインパクトが足りない。僕は読んだ人々から、ねたみのない羨望が欲しかったのです。
伊勢文化舎編集チームのアイデアとセンスと文章力が、外宮前ボンヴィヴァンの立ち上げに一役買ってくれました。
現在NAGIの編集長は、当時の担当者。ボンヴィヴァンの写真に添えられた彼女の素敵な言葉の数々に、僕は心底ひかれました。
グルメガイド伊勢路の味くりげから三重のおいしいもんと名前を変えた真っ赤な雑誌。
僕は嬉しい事にその表紙の料理写真を2集連続で飾る事が出来たんです。なんたる名誉。
そして夢のレストランだと紹介されている。
僕はまだまだ先頭切って走らなければいけない。頑張る。そう思いました。
思い返せば、高校からの放浪癖に加え競馬と麻雀に明け暮れた大学時代。
グルメどころか昼、インスタント焼きそばで夜、インスタントラーメンの生活をしていたのですよ。
そんな僕が料理に目覚めジャニーと出会い成長できた。
そして自分の店は雑誌伊勢志摩の褒め言葉にそそのかされて(笑)ここまで進化することが出来ました。
なるほど・・・。僕もようやく褒める楽しさを知ったようです。
若い頃はガイドブックを信じて訪ねてショックを受ける。そんな悔しい思いをしたことが数々有ります。
その度に僕は、執筆者の味覚や感性を疑うよねー・・・なんて無責任に連れに言って慰め合っていました。
自分のことを棚にあげた憎たらしい奴。
でも今なら違います。グルメガイド情報を見て店内や料理の写真でインスピレーションを感じたら、予約の電話をします。
感じが悪ければ体裁よく喋り受話器を置くだけ。予約をした時点で、そこからはもうこちらの責任。
写真で気に入り電話応対の温かさで決めたことだから何があってもなんにも言えない。
店の前に立ち、眺めてから(予約してなければ直前逃亡も可能なんだけどね)・・・ドアを開ける。
お出迎え。テーブルへの案内。お飲み物はいかがいたしますか?ワインの品揃えと保管。そして料理。
吉と出るか凶と出るか・・・でも僕は、若いときのように誰かさんに八つ当たりはしない。良ければ最高に盛り上がるし良くなかったとしても良い所を探して褒めるだけ。皿の柄が綺麗かも知れないし、パンが美味しければいいじゃない。
それよりも何よりも24年前の僕の店がそうだった。
僕はきっと良い所だけを見つけて褒めてもらってたんだから・・・。
雑誌伊勢志摩改め伊勢人(いせびと)は8月1日発売の158号をもって休刊となる。
中村代表、乾元編集長。長い間お世話になりました。
引き続き貴社のご発展をお祈りします。